第7話) 30歳を過ぎての語学留学

「語学留学」という言葉にピクッと反応してしまう人も多いのではないでしょうか。一度は誰もが憧れる海外で英語を勉強する、そんな僕も最初は英語の学校から始めました。

今の時代、インターネットで何でも情報が入るし、無料で学校申し込みの代行をしてくれる所もたくさんある。確か当時はオーストラリア大使館に問い合わせると、学校のパンフレットを送ってくれるサービスがあった。(今でもあるのかもしれない)

インターネットをフルに利用して、自分で学校の評判などを調べて、良さそうなところを見つけて、エージェントにお金を送金した。実はこのお金を送る段階が一番緊張した。一度、裁判沙汰になっているので、この会社は大丈夫かを更に調べてからお金を送り、入学手続きをしてもらった。一切の手数料はかからずに、逆に無料なのは学校から紹介料でも貰っているからだろうって勝手に勘繰ったりしていた。

オーストラリア移民局の指定病院が札幌にもあり、そこに予約を入れ健康診断を受けた。なんて事のない身体検査と問診、レントゲン写真で2万円。いい商売だと計算してしまう自分が悲しい…(汗; ビザのスタンプをもらうのにパスポートを大使館へ送って、返送してもらうという行程もちょっと不安だったが、思ったより簡単に学生ビザが下りた。

ブリスベンの学校に決めたのは理由があって、まず一番はロサンゼルスの気候に一番近い都市だったこと。地図帳を引っ張り出し、年間平均気温、降水量、湿度、晴れている日数、そんなのを調べて、ブリスベンが一番理想に近かったのだ(笑) ゴールドコーストでも良かったのだか、どうしても遊びのイメージがあって、英語取得が第一目標の僕にとっては逆風になる気がした。

自分の語学留学する理由が「英語を身につけて、英語人と一緒に仕事をする」ということだった、オーストラリア人でもアメリカ人でもいい、英語環境の中で仕事をし、絶対に日本人の下では仕事をしないと心に決めた。アメリカの教訓がそうさせたのだ。そのためには、一時的に仕事を辞めてでもいいから語学取得に入らなくては駄目だと思った。

札幌の地下鉄麻生駅から千歳空港行きのバスに乗り、外は雪が積もっていて雪祭りの雪像を作るために自衛隊のダンプカーが新雪のキレイな雪を運んで道路を往来しているのがみえ、しばらくこの雪を見ることもないんだなと窓から見える光景をぼんやりと見ながらバスのアナウンスが流れてくる・・・。

千歳空港は国際線も発着するので、バスの中は英語でのアナウンスも流れている。この当時は何を言っているのか全く聞き取れない英語力で「こんな英語でも聞き取れるようになるのか?」と不安げだった。約1時間が経過して、千歳空港に着いた。インターネットで最安値の航空チケットが、その時はマレーシア航空だったので、成田空港からマレーシアに向かい、一泊をしてからブリスベンに向かうという空路だった。どうしてなのか遠回りをして行ったほうが飛行機代も安く、違う国で遊べるというのがお得な感じがしていた。

これからの生活を考えると、できるだけ節約しなくてはならず、マレーシアで一泊のストップオーバーも、一番安い宿をさがした、一泊500円だった(笑) シャワーは水だけでお湯は出ない。6畳間くらいのスペースに事務所にあるような鍵付きのロッカーが一個、二段ベッドが両側に二つ、誰かが一人ベッドから降りるスペースしかないくらい狭い。エアコンはあるものの、なぜか窓が開いていて熱い。スーツケースとリュック一つで日本を出た最初の夜だったが、ずいぶんとエキサイティングな街に出会ったものだ。。。

朝の屋台朝食
<マレーシアでの朝の屋台と朝食>

一日中、何処かかしらで屋台が並んでいて、100円も出せば、美味しいマレー料理をお腹一杯食べれたし、夜もチャイニーズ料理を安く豪華に食べれる。夜の出店(マーケット)では偽物のソフトやDVDなどを売っており、日本語で「部長さん!安いよ!にせものだよ!あ、ゴメンナサイ、社長さんだ!」って売っている。誰か正しい日本語を教えてやってくれ!

一泊500円のバックパッカーを後にして空港へ向かったが、これも一番安い電車とバスを乗り継ぐ方法にした。普通、日本人であればタクシーや高速バスなどを使って空港まで往復するのだろうが、マレーシアの電車に乗って、駅で乗り継ぐなんて誰もしないだろう(笑)

電車を下りて小さな駅。とんでもない田舎へ来てしまったものだ。丁度お昼時だったので、屋台は人々で賑やかだった。いや、これでも賑やかなんです(笑) 本当に寂しい村の駅って感じでした。空港行きのバスが本当に来るのか不安だったけど、エアーポートとバスという単語だけ知ってれば通じるだろう!これは英単語と言うよりは、日本語の外来語なので英語の部類に入りませんが・・・・。

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<とある村の駅前屋台、道路は砂利道、アジア人が珍しく、みんな僕を見ていた>

マレーシアからブリスベン空港に到着したのは2002年2月2日。南国の香りがして、空港の周りにはヤシの木が立ち並んでいた。語学学校の職員が学校のロゴの入ったボードを持って待っている、そのスタッフがオーストラリア人だった、自分の名前を言い、名簿にきちんと載っていて一安心。ここまで来て、あなたの名前は無いなんて言われたら笑えない(笑)

自分と同じ学校へ入学する生徒が、他に5人くらいいて、全部が日本人だった。みんなは、出身はどこ?とか、どこの学校へ行くのなど、日本語で話し始めていた。僕はできるだけ日本人と話をしたくなかったので、グループから避けて、オージーのおじいちゃん運転手と一緒に駐車場まで歩いた。僕が話せるのは「名前」「出身地」「Yes」と「No」、あとはハローやグッドモーニングなどの挨拶程度だった、それでも日本語を話す日本人と一緒にいるよりは、心地よかったので、ニコニコしながら車を止めてある場所へと向かった。

おじいちゃんが向かう車を見て驚いた!白のリムジン!こんな高級車で迎えにこなくていいから、入学金安くしてくれって心の中で叫んだ(笑) 後部座席は6人が3人+3人と向かい合わせになって座るので、日本語で話しかけられないように根暗の少年を装ってずっと外の景色をみていた。

ここから、皆がそれぞれのホームステイの家族の家まで行き、一人づつ荷物と一緒に下ろされていく。まるでドナドナのようだ。街の景色はとても緑が多い印象だった。どの家もどの家も緑に囲まれている。南国の木々の中に家の屋根や壁が覗いているような感じで自分は南の国へ来たんだという実感が沸いた。

一番最後は僕だった。と言うことは街から遠い場所なんだろう。ホストファミリーはリムジンに乗ってきた日本人学生にビックリしていた様子だった。ホスト・ファザーとマザー、子供が2歳4歳6歳8歳と、キレイに偶数歳でした。マレーシア滞在と早朝の飛行機で疲れきった僕は、自分の部屋に案内されて、そのまま寝てしまった。

こんな語学留学から始まったオーストラリアでの第一歩。

目標は英語の取得。そして英語人と仕事をする。そしてブリスベンで名前を売る。

その基盤はやはり英語だった。これからも日本人を避ける日々が続いた。

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