第2話) 鋏と櫛だけでは世界で通用しない

オーストラリアに来た当初は、当たり前だが誰も僕の事は知らない。普通に英語を勉強している語学学校生、日本から来た留学生である。
英語力はゼロに等しく、テキストの中で分からない単語は「殆ど全部」って感じだった。


銀行へ行っても「英語を話せる人を連れてきなさい」と怒られて口座開設してもらえず、悔しくて隣のライバル銀行へ行って開設した。


プリペイドの携帯電話を買うと、使用開始するには電話会社へ電話して、生年月日やパスポート番号などを知らせなくてはならないのだが、あまりにも僕の英語が通じないので

「ちょっと待ってて」
と言われ、そのまま受話器を机の上に置いたまま、相手はどこかに行ってしまい、僕は20分以上も電話の前で座って待っていた。

「誰か外国人なれしている担当の人が来るのかなぁ」
と思って待っていたが、結局担当者は休憩に出かけたようで、悲しさいっぱいで受話器を置いたものだ。


「こんなんで、英語を話せるようになるんだろうか?」


と切ない気持ちのまま近所の駅から、ホームステイまでのみちのりを、涙がこぼれそうになりながら歩くこともあった。


最初は子供が4人もいる大家族の中にホームステイをした。寝床もあり食うに困らず安全な場所なのだが、結構なお金を払わなくてはいけなかったので、日本にいる間に3週間だけの生活にしようと決めていた。

その三週間にした理由は…、

    最初の一週間で街の中のストリートを把握して掲示板のあるところを探す。
    二週目にはシェアメイト(同居者)募集の張り紙を探して電話をかける。
    三週目にはその部屋を見に行って契約を結ぶ。


これは案外うまくいき、デビッドという日本が大好きなオーストラリア人の家の一室を借りることができた。このデビッドとの出会いが今後の自分の進む道のキーポイントになるとは夢にも思わなかった。

4119.jpg

    (写真)2003年ブリスベン・サウスバンク、人口ビーチ

「なんで自分は辛い思いをしてまでオーストラリアにいるのだろう」

と自分に問いただすことが多々あった。


海外にでた理由は
「海外で生活しているアジア人と日本人のために、髪の毛で困っている人のために、自分の日本で培った技術が役にたつのであれば」
という思いで日本を離れた。

でも不安でかなり辛い。お金も無ければ、コネもない、英語力もない。


自分にとっては、どうも日本社会が理不尽におもえてならなかった。
理容室・美容室の件数は、木村拓哉が美容師を演じたドラマ「ビューティフルライフ」を切っ掛けに美容師人口が急激に増え、それから5年後10年後にはドラマの影響を受けた美容師達がサロンのオーナーになり、美容室一軒あたりの人口の比率は低下するばかり。


美容師人口が増えればスタッフを探すのも容易になり、賃金も最低賃金を守っていれば人件費を低く抑えることができるのかもしれない。
しかし、相当な経営努力は必須だし、新しい技術がどんどん出てきて、流行についていかないと周りから置いていかれるというプレッシャーがある。毎日が他店との競争だし、どれだけ日々練習して高度な技術を身につけようが、業界の安売り合戦の負のスパイラルに引きずりこまれるのが落ち。

働いても働いても儲からない図式が頭の中で見え隠れする、もっと人間らしい生活をしながら誰かのためになることはできないものか。
こんな競争の激化するであろう業界に残って戦う気にはなれないし、働いても働いても利益にならない中で自分の大切な時間を費やしたくない。人と違うことをしてここから抜け出そう!
よく言えば挑戦。悪く言えば「逃げ」なのかもしれない。


「日本にいるよりは、この辛さの方がましだ・・・、辛いが夢が広がる!」

英語さえ身に付けば、自分には技術があるのだと、いつも言い聞かせ歯を食いしばっていた。

コメント